日本に「正しい美術文化の在り方を構想し具現すること」を目的として、本協会を結成した。
創立会員は41名、創紀美術(独立美術協会・二科会などの前衛作家が中心となって結成した美術団体)その他の前衛作家が参加し銀座アラスカで発会式を行った。同年8月機関誌『美術文化』第1号、11月第2号を発行、11月秋季小品展を開催。
第1回公募展を上野公園美術館で開催。『美術文化』第3号4月、第4号8月、第5号11月発行。11月秋季小品展を銀座三越で開催。
公募第2回展より第5回展まで、毎春、上野公園美術館で開催。但し、この4年間は、戦時の文化統制のため、機関誌『美術文化』は第7号から発行禁止。会の代表は反戦思想犯として長期間投獄。特に名古屋在住会員の全員が強制捜査によって全作品を没収され、1名は投獄され、作品の傾向、陳列、発表、日常の活動に至るまで諸種の制約禁圧を受けた。但しその間、航空美術展、戦場巡回美術展などを開き、当局に協力する会員もいた。尚、この間に会員中に戦死者、戦病死者、病死者、住所不明者などが続出し、会員数は半減、1945(昭20)年の公募展は中止した。
公募第6回展より第9回展まで、毎春都美術館で開催。毎秋、秋季展を銀座その他で開催。他に個々の会員の活躍も目立ち、日本画壇における“前衛の旗手”と評価されるに至った。
公募展10回展より第37回展まで、本展開催地に名古屋、大阪、京都を加え、また準本展を浜松、神戸、静岡、長浜(滋賀)、岡山、松山、山口、鹿児島、姫路、富山、札幌、熊本などで開催。その他の主要都市で巡回小品展を、ニューヨーク、クリーブランドなどの諸都市で米国巡回展を開催するに至る。尚、この間、写真、書道、華道、映画などの造型の他分野にも大きな影響を与え、それらの先端を行く人たちと共に「前衛芸術運動」を展開し、今日に至った。
デザインの社会的介入を目的とし、中部九県の後援を得て中部圈開発に参加、ル・ブリアン・デザール・フェスティバルを開催する(愛知県美術館)。
デザイン部を新設する。
創立40周年記念展を開催、オールカラーによる記念画集を発行、世界的美術館30を選んで送付した。また、この年より写真部を復活させた。
ニューヨーク美術文化19人展を、また、1980年には同人23人展を開催、ニューヨーク以外のアメリカ都市にも巡回した。
第40回展を機として、機関誌『美術文化』を復刊。また、この年立体作品増加のため、彫刻部を独立させた。
神戸博「ポートピア’81」に参加、「幻想と抽象の海展」を開催する。
「新人選抜展」を銀座アートギャラリーにて開催する。
第70回を記念展として、巡回先を名古屋・京都のほか、高松・熊本・浜松とする。
都美術館改修に伴い、宇都宮で開催予定の第71回展は、3月11日発生の未曾有の大災害(東日本大震災 地震・津波・原発事故)のもと、激論の末、やむなく中止。巡回先の名古屋・京都で全作品を展示した。
都美術館改修後、5月に第72回展を開催。名古屋・京都へも巡回。第1回「公募団体ベスト・セレクション2012」展(都美術館主催)に3名出品。
巡回先に大阪を加え、京都・名古屋・大阪の3ヶ所とする。
巡回先に、第71回展で大震災の為やむなく中止とした宇都宮を加え、京都・名古屋の3ヶ所とする。