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会員:本山 正喜 _ MOTOYAMA Masaki

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コメント/プロフィール

私が描くもの

美術文化展に出品してから35年になる。昨年県立高教職の退職を機に、これまで描き貯めた作品の中から45点を選び個展をした。100号から200号までの大作ばかりである。個展会場に並べられたそれらの作品を前に、制作当時の思いを巡らし一点一点が懐かしくまた自分を見つめ直す機会を得ることができた。

若い頃から生とか死をテーマに制作してきた。ただ友人や身近の人の死を一人また一人と実際に目の辺りにすると、このことを強く意識せざるを得なくなった。父や母の死は高齢で人生を全うした感があり、あきらめと納得の気持ちがあった。しかし2年前兄を白血病という闘病生活のあと70歳で亡くしたことや、大学時代の同級でウィーンに留学し才能ある友人を今年癌で失うなど、またその逆に100歳になろうとしている義母がベッドの上で介護を受けながらも生きている姿を見るにつけ、生きることの大変さと死の重みをひしひしと感じる。

生あるものは必ず死がある。これは誰もが逃れることはできない。また死後の世界は誰もわからない。しかし全ての人が、穏やかで楽しく幸せな俗に言う極楽浄土の世であって欲しい。特に兄や友人みたいに生前闘病生活の上苦しみながら死を迎えた人には死後の世界は痛みも苦しむこともない穏やかな世であって欲しい。

ここ最近は亡くなった人への思いと鎮魂の意味も含め、極楽浄土にも匹敵する現世で幸福の形はどんなものか、また一画家としてどのように表現したらよいかを考えた。そのとき頭に浮かんできたのが乳飲み子を抱く母子の姿であった。66回展の「奏」はそのような状況から生まれ、現在もその幸せの形を探し求めている。人は幸せの絶頂の下に産まれ、アダムとイブのように禁断の木の実を食べ、悩み苦しみを知るようになるのはいつの頃からだろうか。それは人の性であろうか。


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