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○ 代表メッセージ ○


第80回記念美術文化展を振り返って

浅野代表の写真

昨年に続き今年もまた新型コロナウィルスの感染拡大が収まらず、第80回記念展の開催が危ぶまれる状態となり、難しい判断を迫られました。

そんな折、会員の方々から「2年間のブランクは会の存続に大きなマイナスになるのではないか」という声が聞こえてきました。 また、「自分は会場に行けないが、作品だけは出品したい」という前向きな意見も届きました。

何としてでも開催しなければという念いから、伊藤事務所を中心に数少ないながら関東会員に協力をお願いし、開催を決定しました。 しかし、搬入状況を見るまでは、記念展に相応しい展示ができるだろうかと不安が募りました。 伊藤事務所から全会員に、2点出品のお願いをしてくれたこともあり、想像していた以上に多くの作品が搬入され、しかも力作ぞろいでほっとしました。 協会員の作家精神の力強さと、制作に対する熱い情熱を感じました。

会場構成は、昨年度の記念展示計画に比して、よりコンパクトになりましたが、見事なものでした。 中でも、第7室の「記念室」には、目を見張るものがありました。 長い協会の歴史が感じ取れる資料の数々は、私たち協会員にとっても、協会の歴史を知る貴重な機会となりました。 評論家をはじめ、多くの鑑賞者の中からも美術文化協会の歴史を振り返り、協会が果たしてきた画壇での役割を知ることができ、よい企画だったとの感想を戴きました。 嬉しい限りです。 美術文化協会は、旧くから「内なる自己に忠実に」を標榜し、各々の時代に、「何を描き、社会に何を訴えかけていくか」を思考する作家集団であると、改めて自負しています。

ここ数年、美術文化展と同時期に、銀座の画廊で会員による個展やグループ展が開催されています。 他団体の作家からも、「こんな大変な時期に、都美術館の本展と同時開催するとは、意欲的に発表される作家が多いのですね」と驚かれました。 新型コロナ禍の下においても、我が美術文化協会の作家たちは委縮することなく、躍動する精神をいかんなく発揮しようと努力していることが理解されたように思いました。

美術館や画廊での芸術鑑賞が不要不急のこととされかねない昨今、私たちの作家精神は、芸術への情熱を通して社会への啓発を忘れずに、日々制作し、発表し続けなければならないと痛感しています。


代表 浅野輝一 (2021年7月:美術文化関東NEWS 8月号より)




私が知る藤田龍児

寄稿ページの写真

藤田龍児(ふじた・りゅうじ) 1928年京都府生まれ。 51年から3年間大阪市立美術研究所で学ぶ。 55年美術文化協会展初入選、以後同会で活躍。 76年脳血栓で倒れ、翌年再発。 麻痺の残る右手から、左手に絵筆を持ち換える。 2002年大阪にて逝去。

私が藤田龍児さんの作品に初めて出会ったのは、1970年の美術文化展のことでした。 旧東京都美術館の会場は、シュールレアリスムの作品が多く、強烈な個性の集まりといった感じでした。 その中で、藤田さんの作品はどことなく穏やかで、静かな雰囲気を醸し出していました。 そんな独特な味わいのある作品でしたが、広い会場に大きな作品がひしめく中では、じっくり見て廻らないと見過ごされてしまいそうでした。 しかし、私は作家の内面が強く表現されている藤田さんの作品に強く魅かれ、毎年東京都美術館で作品を見るのが楽しみでした。

ある時、美術文化京都展でお会いし、仲間数人と居酒屋で絵画論を交わす機会がありました。 その折、藤田さんが静かにゆっくりした口調で、「浅野君、絵描きはねぇ、自分の世界をゆっくり探し続け、長く懲りずに表現していくことだよ・・・」と言われたことを、今も鮮明に覚えています。

藤田さん自身も穏やかな人柄で、しかしこと絵については時に熱く厳しく、作家らしい人間性でした。 でもどこかユーモアもあり、それは作品にも見られ、アパートを描いた作品の一つ一つの表札に美術文化協会のメンバーの名前を使用しているものもありました。 仲間を大切にしていましたね。

その後、1976年に脳血栓で倒れられ、美術文化展にもしばらく出品されませんでした。 お会いする機会も失い、非常に残念に思っておりました。 それでも藤田さんは、絵筆を麻痺が残った右手から左手に持ち換え、1982年から再び美術文化展に出品されました。 明確ではないですが90年半ばまで出されていたと思います。

病気で倒れられて以降に、大阪市立美術館での美術文化協会関西展で久しぶりにお会いしました。 あまりお話はできませんでしたが、以前とはどこか異なる印象がありました。 変わらず穏やかな表情をしながらも目は鋭く、より芯のある力強さを感じました。

左手で自分が納得できる技術を身につけられるのには、どれだけの努力、忍耐が必要だったことでしょう。 私が何より驚いたのは、以前の藤田作品と大きな変化がないばかりか、ますます強く明確に藤田さんの世界が伝わってきたことです。 人柄にも作品にも強さが現れ、描く対象は大きく変わらなくともさらに深く対象を捉え、自身の内面とも戦っているようでした。

「エノコロ草シリーズ」「散歩で見た家々や道ばたの草花」等のテーマに藤田ワールドがより深く表現されてきたように思います。 正に「藤田さんの心の風景」「藤田さんの童画」と言えるでしょう。 生きとし生けるものに対する愛情や厳しさが溢れ、病から復帰された強い精神力があればこそ生まれた藤田芸術の神髄であると感じます。

かつて京都の居酒屋で話された「自分の世界を探し続ける」という言葉を藤田さん自身が貫かれているのだと痛感しました。

現在、コロナ禍で人々の心は閉塞感でいっぱいです。 今こそ藤田芸術は、人々の心を豊かにしてくれるのではないでしょうか。

藤田龍児さんが、私たちに何を語り続けられているのか、じっくり味わいたいものです。


代表 浅野輝一 (「美術の窓」2021年12月号に掲載された寄稿より)


楽園と牧歌……
結びつくふたりの作家に注目!

「牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン×藤田龍児」
2022年4月16日(土)~7月10日(日) 東京ステーションギャラリー

寄稿:「響き合う稀有な競演」 冨田 章(東京ステーションギャラリー館長)
「私が知る藤田龍児」 浅野輝一(美術文化協会代表)



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